渋沢栄一を別視点から考える
令和で1万円札に
「渋沢栄一」
が載りますね。
でも皆さんは実際、「渋沢栄一」のことについて知っていますか?
今回は別視点からもふくめ考えていきたいと思います。
目次
渋沢栄一とは?
別視点からの考察
1.渋沢栄一とは?
渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に生まれました。
小さい頃は「農業」をおこなっていました。
幼い頃に父親から学問のアプローチを受けて、従兄弟の元で「論語」
の勉強をしていました。
その後は、この頃から叫ばれていた
「尊皇攘夷」の影響受けて、高崎城の乗っ取りを計画しましたが辞めて京都へ行きました。
この頃からあの徳川最後の将軍である
「徳川慶喜」についていました。
次第に才能が認められて、その後水戸藩主の徳川昭武に付き、パリで開催された、「万国博覧会」を見学したことにより、欧米諸国の優れた技術を目の当たりにしました。
「商法会所」を静岡県に設置しました。
その後は、
「大蔵省」
の一員として日本を作っていきました。
その後 大蔵省を辞めた渋沢栄一は、民間の経済人として活動を開始して、
「第一国立銀行」の総監として活動しました。
国立銀行を拠点とし
株式会社による企業の創設や育成に力を入れていったことにより道徳経済合一説を説き、生涯に500という数の企業に関わていたと言われています。
これは、すごいことですね。
2.別視点からの考察
ここからは、別視点から考えていきたいと思います。
渋沢栄一の生涯というのもまた記事で書きます。
ぜひご参照下さい。
その別視点とは、「生き様」から見ていきたいと思います。
渋沢栄一は、農家として生きてきました。
幼少期は、親から農業についての話を聞いていたと思います。
そこで渋沢栄一は、エリートの生き方してみたいと考えたのではないかと考えました。
それが渋沢栄一の「ハングリー精神」となり、
渋沢栄一のここまでの業績となっていったのではないかと考えました。
これは、1万円札の顔として
選んだのも適当と考えてもよいでしょう。
さらに徳川慶喜についていたことにより、
政府の考え方や何を日本が取り入れなければならないかの明確な判断ができたのも
渋沢栄一が成長していくためには、必要なことだったとと考えます。
経済の分野から考えるのも面白いです。
ですがあえて違う分野で話してみるのも面白いと思います。
今回は、この辺で
ありがとうございます。
とある大学生でした!!
参考文献
公共財団法人 渋沢栄一記念財団
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html
他もどうぞ