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大学生が歴史と歴史学を考える

とある大学生です。未熟者ものですが自分なりに歴史についての疑問や考え方を発信していきたいと考え始めました。アドバイスなどは歓迎します。「ここは違う」や「このような考え方はどうか?」などよろしくお願いします。コメント通して成長していきたいと思います。大学生の考え方なども分かると思うので興味のある方は是非ご参照ください

津田梅子を別視点から考える

今回は、あの渋沢栄一に続いて、


新お札の5000円に抜擢された、

津田梅子

に関して考察していきたいと思います。

では行ってみましょう。


目次

津田梅子とは?

別視点からの考察

1.津田梅子とは?


津田梅子とは、1864年から1929年の間生きていた人です。

かなりの秀才で6歳の頃に、北海道開拓使が募集したとされている女子の留学生として


岩倉使節団


の船に乗った人です。

このときに岩倉使節団に乗っていた女性は、
5人でした。


その中でも最年少の団員でした。

このときは、

津田梅子は、まだ英語の単語を2~3単語知っているぐらいでした。

この小さいながら親元を離れて留学する所が


かなりの冒険家ともいっても良いでしょう。


アメリカでは、英語以外にも、ラテン語、フランス語と様々な語学を勉強し、


11年間アメリカに住んでいました。


17歳で帰国した津田梅子は、


教育者としての道を歩み始めます。

教師として女学生をおしえていました。


1900年には、



なんと今は有名な津田塾大学の先駆けとなる


女子英学塾

を設立しました。




2.別視点からの考察


ここからは、考察をしていきたいと思います。


ここは、教育者としてではなく


留学生という視点から考えていきたいと思います。


留学生となった津田梅子は、6歳でした。

小さい時から様々な言語に触れることにより


語学を習得しやすいことが分かります。


そこが津田梅子がラテン語やフランス語などの


多彩な語学を習得できた鍵だったのではないかと考えます。

さらに


最年少だったということも


勉強熱心になる理由ともなります。

遅れを取らないように、


相当熱心に勉学に励んでいたことが分かります。


ここから津田梅子は、


語学の習得に関して、


かなり能力が高かったことが分かります。



教育者として考えるとやはり

1番は、女子英学塾の設立です。


大学名に英学とつけている所から、


この時代には、英語が必須の条件であった事が予測できます。


今回は、


この辺で


ありがとうございます。



とある大学生でした。



参考文献

津田梅子(つだ うめこ)|人物編| 中高生のための幕末・明治の日本の歴史辞典

https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_19.html


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