1分でわかる!! 承久の乱
今回は、鎌倉幕府の力と言うものがかなり大きくなったとされる
「承久の乱」について話していきたいと思います。
目次
承久の乱とは?
考察
1.承久の乱とは?
承久の乱とは、
これには、後鳥羽上皇の考えがあります。
それは、「朝廷の政治」の立て直しというものが1番の目的です。
そのために後鳥羽上皇は、分散をしていた領土を治めるとともに
「西面の武士」
を設置し、幕府との戦闘に備えました。
1219年には承久の乱の発端となる
鎌倉幕府3代目将軍 源実朝が公暁によって暗殺されてことから関係が悪化し、1221年に
ですが幕府側にいた、源頼朝の妻であった
その結果は、後鳥羽上皇の軍は、敗北し
幕府は、「仲恭天皇」を廃し、後鳥羽上皇を隠岐に
「土御門天皇」を土佐に「順徳天皇」を佐渡に流しました。
これが1221年に起きた「承久の乱」です。
2.考察
ここからは、簡単に考察をしていきたいと思います。
それは北条政子の呼びかけです。
これは、御恩と奉公という封権制度を作り出した源頼朝への忠誠心を呼び起こしたものだったのではないかと考えました。
さらに今までは、幕府と朝廷という2つの支配機構が存在する時代でした。
ですがこの戦いが終わった後の時代からは、
天皇の力は存在していても君臨しているだけであって
江戸時代の大政奉還のときまで武士が作り出す政治体制が続くきっかけとなったことが分かります。
今回は、この辺で
とある大学生でした。
参考文献
笹山晴生他 『詳説日本史 改訂版』株式会社 山川出版社2016
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