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大学生が歴史と歴史学を考える

とある大学生です。未熟者ものですが自分なりに歴史についての疑問や考え方を発信していきたいと考え始めました。アドバイスなどは歓迎します。「ここは違う」や「このような考え方はどうか?」などよろしくお願いします。コメント通して成長していきたいと思います。大学生の考え方なども分かると思うので興味のある方は是非ご参照ください

1分間で分かる!! 元寇

はい!


今回は、「元寇」について


話をしていきたいと思います。


ではいって見ましょう!


目次

元寇とは?

考察


1.元寇とは?

まず

モンゴル帝国について話していきたいと思います。


モンゴル諸部族を統合して中央アジアからロシアまでの征服をしたとされる


チンギス・ハーン」がいます。

モンゴル帝国初代皇帝です。


ヨーロッパ遠征なども行っていました。

元寇が起こったのは、この孫のフビライ・ハン

のときです。

中国を支配するために都を北京にうつし、

国を元と改めました。

高麗を服属させた後に、日本に対して、何度か朝貢を要求してきました。


その時の鎌倉幕府執権は、


8代目の北条時宗です。

この人は、何度も何度も拒否をしてきました。


その後1274年には、対馬壱岐を攻めにきました。

この時は、日本は、ほとんど対策をしておらず九州北部の博多湾に上陸しました。


この時には、九州地方の御家人を導入し、迎えうったが元軍の変わった武器の影響で

かなり苦戦しました。

これを「文永の役」といいます。


幕府は、次の襲来に備えて、


九州北部に、防塁を築きました。

その後、元は、南宋を滅ぼし、再び九州北部に迫りました。

ですがこの時、暴風雨で大打撃を受けたことにより

再び敗退していきました。

これを「弘安の役」といいます。



この2回の襲来を「元寇」といいます。


実は、この戦いに動員された人達は、高麗の人達で構成されている「東路軍


南宋中心の「江南軍」でした。

モンゴル人はあまりいませんでした。




2.考察



ここからは、考察をしていきたいと思います。


私が思うには、この戦いでは、かなり日本の天気の影響が関係していると思います。


台風が近づいていたことから


大体9~11の頃に襲来したということが分かります。

この元寇が失敗した理由として考えられるものの一つとして

元が内陸部に位置していたことが


敗因だと考えます。


内陸部となると

やはり海洋関係の知識などはほとんどないと思います。


そもそも海があるということさえ分からなかったかも知れません。


海を知った理由として


やはりヨーロッパ遠征だと考えます。

元寇で唯一の救いだったのは、


モンゴル人かほとんど乗っていなかったことです。

これは、何故かというとこの頃、ペストが流行っていたからです。


元軍の軍を構成しているのは、高麗の人達と

南宋の人達が中心です。


これが日本が病気に侵されることが回避されたものです。


今回は、この辺でありがとうございます。


とある大学生でした。


参考文献



『詳説日本史 改訂版』笹山晴生 株式会社 山川出版社2017


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